多摩の地理と歴史

多摩市は、東経139度27分、北緯35度38分に位置し、北は多摩川を境に府中市、
東は稲城市、南は町田市と神奈川県川崎市、西は八王子市と日野市に接している。
面積は21.08平方キロ。
地形は、全体的に多摩川と平行して走る一連の丘陵と、南に伸びる数上の丘陵に
囲まれている。北方の多摩川に面した平坦地(京王線聖蹟桜ケ丘付近)は、標高
約53メートル、東南方の八坂神社付近で標高約161メートル、西南方町田市
と八王子市の境界付近で標高約170メートルある。

市内に人間が生活するようになるのは、今から約2万年前の旧石器時代である。
約12000年前には土器と弓矢が発見され、縄文時代に入る。この時代の遺跡
市内に多数存在するが、約2300年前の弥生時代に入ると、水田耕作に適さない
ためか市内は無人に近い状態になる。
再び人間の生活が確認されるのは、1700年ほど前の古墳時代になってからである。

鎌倉時代になると、諸国と鎌倉を結び付ける街道筋が大きな賑わいをていしはじめ、
当地に置いても、町田市の真光寺南大谷をぬけ小野路から貝取の瓜生に出る新道が
開設され、乞田の大橋で従来からの国府街道に合流した。
更に、当地は、鎌倉防衛の要害の地であることから関所が設けられ、その入り口で
ある関戸付近は宿場として栄えたが、江戸時代になると政治の中心が移り、賑わいは
下火になった。

鎌倉時代末期になると、北条政権にたいする不満が高まり、幕府の存亡をかけ北条氏と
新田氏が戦いを繰り広げた。

江戸時代においては、格別大きな事件もなく、旧8か村(関戸村、連光寺村、貝取村、
乞田村、落合村、和田村、寺方村、一ノ宮村)でそれぞれの代官や地頭の支配のもと、
村役人が日常の行政を司っていた。各村は、関戸村が宿場であったほかはすべて純農村
であった。

明治時代になると、当地は、韮山県と武蔵知県事に分属し、神奈川県の所属するところ
となった。明治22年市制・町村制の施行とともに、当地においても旧8ケ村と2飛び地
(百草村と落川村)が合併し、多摩村が誕生した。
なお、明治26年には東京府における水利問題から三多摩地方が神奈川県から東京府に
編入され、これにより多摩村も東京府南多摩郡に所属することになった。

昭和30年代に入ると市内各所で宅地開発が始まり、都市化の波にあらわれはじめた。
昭和39年4月1日、町制を施行し多摩町になった。
昭和40年新住宅市街地開発法によるニュウータウン建設区域の決定がなされ、当町の
約6割が同地域に含まれることとなった。
昭和46年には、多摩ニュウータウン諏訪・永山地区において入居が開始された。
こうしたなかで、46年11月1日、市制を施行し多摩市となった。

(平成5年度版 多摩市の教育  多摩市教育委員会より)
 


所帯数    62、728
人口    144、306

      (平成18年12月1日現在 多摩市ホームページより)

”多摩の地理と歴史“に戻る
有益地域情報トップへもどる