コミュニティセンターの夜明け

1 時代の流れ

桜ヶ丘住宅地の開発

 昔、まだこのあたりが多摩村だったころ、稲城の南多摩駅を起点として連光寺の聖蹟記念館から百草園を経て平山城址公園方面に向かうハイキングコースがあった。このコースは関戸霞ヶ関の延命寺横から見晴台、城山と霞ヶ関丘陵の尾根道を登って琴平神社へ達し、七曲り坂から東寺方へ下って百草へ至るものであった。この丘陵は特別の名前はなく、神社があったことから金毘羅山と呼ぶが、古くは城山とか天主台などと一括総称していたようである。古い地図には霞ヶ関山と書いたものもある。関戸付近には源頼朝、曽我兄弟に関する伝承もあるようだが、南北朝時代に激しい戦いがあり、当時この山上に砦または見張り所があったという。

 1956年(昭和31年)桜ヶ丘住宅の開発が帝都電鉄の田園都市建設計画に沿ってスタートした。1960年(昭和35年)春には320,000坪(76ヘクタール)の土地の買収をほぼ完了し本格的な工事が始まった。1962年(昭和37年)8月には4丁目の199区画が完成して販売開始、続いて10月に3丁目、1963年(昭和38年)10月に2丁目、1964年(昭和39年)1丁目と次々に販売されて桜ヶ丘住宅街が形作られ、1965年(昭和40年)12月には住宅地工事がすべて完了している。

都市集中化現象

 当時の日本経済は、第二次世界大戦の荒廃から不死鳥のようによみがえり、終戦後の10年間は平均して8.5%と予想以上の経済成長を記録し、1955年(昭和30年)には生産水準もおおむね戦前の平常時水準に戻り、1955年をもって「もはや戦後ではない」と経済白書は宣言した。

 1950年の朝鮮戦争をきっかけに始まった高度経済成長とともに、大きな社会的変化がおこり、急速な都市集中化現象をもたらした。1951年から1960年にかけて、人口増加は特に6大都市に集中し、この時期に人口は50%増加したといわれている。1960年代、70年代の特徴は、大都市圏の人口集中と、大都市周辺の郊外化である。大都市周辺部に広大な新市街地が小さな町や農村を巻き込んで形成され、大都市からあふれだした人々の住む住宅地となった。

 桜ヶ丘住宅はこうした社会の流れ中で、理想的な田園都市を作ろうといち早く開発された。1956年(昭和31年)に当時の多摩村の世帯数は1,513戸、人口7,714人で、これといった産業はなく周辺の市町村の発展から取り残された形であったので、多摩村として桜ヶ丘住宅開発の受け入れ態勢は時をおかずに固まったといわれている。

 桜ヶ丘住宅工事が完了した1965年(昭和40年)、東京都は、新住宅市街地開発法(昭和38年制定)により多摩ニュータウン建設計画を決定した。これによって、多摩町の6割が多摩ニュータウン地域に含まれることになった。1967年(昭和42年)、多摩ニュータウン宅地造成工事が本格的に始まり、1970年(昭和45年)に百草団地入居開始、翌年には多摩ニュータウン永山地区の第一次入居が始まった。

地域社会の解体

 郊外の新市街化地区が拡大するにつれ、都心に長時間通勤する人々が増加し、朝早く出勤し夜遅く郊外に帰宅するホワイトカラーの生活スタイルが普通のことになった。ホワイトカラ−を中心に居住する街では地域社会にはほとんど関心や関係を持たない人々が大量に発生した。また高度経済成長は、人々の生活圏の拡大という大変化ももたらした。モータリゼーション、テレビや電話などの情報環境の拡大、商品生産の多様化、消費水準の向上も著しく、生産、取引、通勤、通学、娯楽などについて生活行動の範囲が拡大した。生活圏の拡大は、当然の結果として生活地域に対する依存度を、心理的にも生活行動の上でも、縮小させることになった。

 その上、かつて地域社会が果たしていた相互扶助機能を代替する専門処理システム(お金を払って専門家が問題を処理する)が整ってきたことにより、住民が相互協力するという状況も崩れていったことなどが、地域社会の結び付きを弱めることになった。

地域社会の再生

 高度経済成長期に、人々は西欧並みの豊かな社会の実現を共通の目標とした。この社会目標が多かれ少なかれ実現されてくると、やがて社会目標に転機が訪れた。「物の豊かさから心の豊かさへ」、「豊かさの実感できる生活へ」などさまざまなモットーが叫ばれ始め、新しい社会目標に向けての模索が始まった。「豊かな人間関係」、「地域社会のコミュニケーションを豊かに」などそのひとつであり、地域社会再生の動きでもあった。ここに登場するのが「コミュニティ問題」である。

 

2 国のコミュニティ行政

コミュニティ問題の提起

 1968年(昭和43年)国民生活審議会は、高度経済成長後の日本社会の問題として、次の3つを取り上げた。

@ 高齢社会の問題

A 余暇の問題

B コミュニティの問題

 これは、地域社会の弱体化を放置しておけば、高齢社会の到来という事態に対応する社会の自己組織の崩壊につながる、という危機感から生まれたものであり、地域社会の再建を図らなければならないということであった。その目標として、コミュニティという外来語が、これまでの町や村に代わって登場した。

 1969年(昭和44年)コミュニティ小委員会は、「コミュニティ―生活の場における人間性の回復」という報告書を提出し、コミュニティを次のように定義し、この定義に示した方向に向けての行政、市民の協力を要請している。

「生活の場において、市民として自主性と責任を自覚した個人

および家庭を構成主体にして、地域と各種の共通目標を持った、

開放的でしかも構成員相互に信頼性のある集団をわれわれは

コミュニティと呼ぶことにしよう」

 この定義が生まれた観点を次のようにまとめている。

@ 経済成長は産業構造、地域構造に変化を生み生活の場に重大な影響を与えた
  こと。

A 伝統的な地域社会が崩壊し、現代の社会は、村落共同体や、隣保組織(町内
  会や自治会)のもつ拘束性から人々を開放したこと。

B 都市環境の下では、自主性と個別性を尊重し、生活の場における単位として
  は、個人と家庭が前向きに押し出されてくること。

C 生活の中には地域社会の人々との交流や相互扶助、余暇の価値ある利用、環
  境施設の整備など、人々の協力と信頼の上に展開される生活の領域が存在す
  ること。

D 新しいつながりにおける自主性の尊重と拘束性への否定。時には孤独を愛し、
  他の時には集団帰属を求める、この要求に対応する開放性が必要であること。

 以上のような認識に関しては、さまざまな評価と批判があったようである。伝統的な地域社会は本当に崩壊したのか。町内会や自治会は全国的に高い組織率をもっているではないか。人々は多くの人間関係に囲まれて、現代もそれに満足しており、孤独感をもつ人は少数派である。人間関係が大切であることは認めるとしても、それらはコミュニティのような地域社会の中で求められる必要はないのではないか。地縁的というより、関心縁的な関係の方が人々の求めるものではないのか。また地域生活のあり方のような問題は人々の自由に任せるべきで、審議会提案などによって推進されるべきものではない、としてコミュニティ施策を「行政主導」であると批判する立場も有力だったようである。

 このように異なった意見もあったが、この報告書には、学者や市民の間にも多くの支持と共感が寄せられ、政府の各省、全国の多くの自治体がこの報告書をきっかけにコミュニティ施策への取り組が始まった。

自治省モデル・コミュニティ施策

 国民生活審議会コミュニティ小委員会の報告を受けて先導的な役割を果たしたのが、自治省のモデル・コミュニティ施策である。1971年(昭和46年度)から始められたこの施策は、各省の類似施策の基準ともなり、全国の市区町村のコミュニティ施策のモデルともなった。そして、この施策がコミュニティセンターの建設を中心的な事業としていたことから、コミュニティセンターの建設はこれをきっかけに全国的に広がり「コミセン」という言葉を生み出すことになったといわれている。

 自治省の推進したモデル・コミュニティ事業は、自治省に設けられたコミュニティ研究会の意見により、コミュニティ活動計画は住民の自由意思によるべきもので、行政側がこれを取りまとめることは不適当とされ、市町村のまとめるコミュニティ計画から活動計画の推進については除かれることになったといわれている。これは正論であったがコミュニティは施設計画であるという誤った認識を市町村に与える結果になったといわれている。

 自治省の推進したモデル・コミュニティ事業は上記のような経緯もあって、もっぱらコミュニティ施設の建設に集中されることになったが、コミュニティレベルの計画や行政が進められることになったのはひとつの前進であったと評価されている。

 モデル・コミュニティ施策においては地区の実情の尊重、縦割り行政の回避、住民の自主性の尊重などの理由から、この施策によるコミュニティセンターなど、同一の名称を強制せずに、この施策の予算で公民館、集会所などの施設を建設することも認められ、こうした施設もたくさんつくれたようである。

 

 

 

3 多摩市のコミュニティ行政

多摩市第一次総合計画

 1973年(昭和48年)多摩市第一次総合計画では、コミュニィティ行政を主要施策として位置づけた。当時多摩市民の3分の2は、多摩ニュータウンの大量入居などで新しく転入してきた人々であった。急激に宅地化した多摩市は、人々が楽しく安全に過ごせる施設の整備がおくれており、当然、人々の地域に対する愛着の度合いは薄く、ましてや多様化・広域化した社会では近隣社会に対する関心を失いかけていた。そこで、総合計画の未来都市像として「太陽と緑に映える都市」を掲げ、「社会連帯感に支えられ、住民意識の高まりを土台とする新しい地域社会の誕生」を目指した。

 前期基本計画(昭和48年)では、市民空間の形成計画のひとつとして「コミュニティ形成計画」を掲げた。おおむね小学校区程度の広さの単位のコミュニティ地区に、公園、集会所等のコミュニティ施設を整備し、地域の諸課題の解決を市民の自発的コミュニティ活動に期待するとした。

 後期基本計画(昭和52年)では急激な人口増加に伴い、コミュニティ施設の整備拡充の必要から、各地区の特殊性を配慮しつつ、施設を重点的に逐次整備するとしている。また、新旧住民の交流・連帯の輪を広げるための市民活動、市民祭の推進が挙げらている。さらに、7つのコミュニティ地区に複合施設(老人福祉、地区市民ホール、集会所、クラブハウスなどのコミュニティ施設)の整備計画を盛り込んでいる。

 主なコミュニティ施設としては、集会所(9棟)、連光寺、豊ケ丘、諏訪の各複合施設が開館している。

多摩市第二次総合計画

 1980年代は、いわゆる「都市的生活様式」の高度化などにより「生活の個人化」がいっそう進展するとともに、個人重視の思想が高まり、家族や地域コミュニティの再評価論が高まっていった。また、再開発や地価高騰に伴い、コミュニティ解体の危機がいっそう問題となり、市のコミュニティ行政も新たな展開をみせた。

 1981年(昭和56年)第二次総合計画 前期基本計画のコミュニティ行政の特徴として、「連帯感豊かな心のふれあうまちづくり(コミュニティ)」を基本政策の第一に位置づけた。第二に、「ゾーニングを設定し、体系的な施設の整備を推進すること」。第三に「自主的なコミュニティ組織づくり等住民参加の推進と、行政内部の「多摩市コミュニティ推進検討委員会の設置」が挙げられた。

 まちづくりに市民の主体的な参加を得て人間性豊かな活力あるコミュニティをつくるために、次の2つの条件を満たす活力ある地域社会がコミュニティであるとした。

―コミュニティとは―

 ◇ 同一社会に生活する市民相互の心と心のふれあいに培われた地域社会

 ◇ 市民の自主的・主体的な参加により、自らの地域の環境をよりよくしていこ
   うとする地域社会

 1986年(昭和61年)後期基本計画では、前期基本計画の考え方を踏まえ、「施設建設準備委員会」に住民の参加を求める方式により、施設づくりに努めることとなった。また、コミュニティ施設の有効利用の推進として、施設の性格上住民の自主的な管理運営がふさわしいものは、極力その方策を検討していく方向づけがされた。そして、昭和61年からは設計、建設の段階から住民参加方式によるコミュニティセンターづくりと、地域住民による自主管理運営の採用等を積極的に行っていくことにした。

 「多摩市行政改革大綱」(昭和61年)においても「これから整備する地区市民ホールや老人福祉館については住民自主管理を推進する。」との方針が出された。

1988年(昭和63年)には、ゆう桜ヶ丘とトムハウス、翌年の平成元年には乞田・貝取あれあい館とひじり館の各館に建設協議会が誕生した。主なコミュニティ施設としては集会所(25棟)、東寺方複合施設、愛宕市民ホール、関戸・一ノ宮複合施設(後にコミュニティセンター)が開館している。

多摩市コミュニティ推進検討委員会報告から

 第二次多摩市総合計画により行政内部に設置された「多摩市コミュニティ推進検討委員会」の第四次報告では、多摩市コミュニティ行政は方向転換する過渡期にあるとして、現状と課題をまとめて第三次総合計画コミュニティ行政の方向づけをしている。

@ 地縁的活動の停滞

地縁的活動とは「自治会、老人クラブ、子ども会などのように、一定の地区に共に住む人による、人と人との結びつき」を基本にした活動である。多摩市では地縁的な団体を代表するものとして自治会、管理組合があり、概ね市域すべてをカバーしている。自治会、管理組合による活動内容は、それぞれ地域の組織や自治活動に一定の成果を上げているが、自治会の加入率の低下や、役員など持ち回りのケースが多く積極的に地域活動を展開する層は限られる傾向にあるなど、活動は停滞しがちである。

A 盛んな知縁的活動

 知縁的活動とは「文化、スポーツ、レクリエーション活動等のサークル活動を通して知り合うことによって生まれる、人と人との結びつき」を基本にした活動である。全国からさまざまな人が移り住んでいる多摩市は多彩な人材に恵まれており、文化、スポーツなどのサークル活動や地域の生活環境、自然保護、緑化、資源サイクル、防災、交通安全、駐車場対策、医療、婦人問題などの特定課題解決型グループの活動が活発に行われる等、自由で創造的な市民活動が展開されている。これらの市民の知縁的活動をコミュニテイづくりにどのように生かしていくかが一つの鍵となっている。

B 新たなコミュニティ概念

 多摩市のコミュニテイ活動は、居住年数の浅い市民が多いことや、計画的につくられた都市に無関心であったり、整然としたまちづくりに不足感が少ないことなどもあり、地域活動を積極的に行っている人はあまり多いとはいえない。また、知縁的な活動が活発になる一方で、団体相互の交流や世代を超えた交流が活発に行われていないという現状がある。そこで、多摩市らしいコミュニティづくりに向けて、第二次総合計画のコミュニテイの概念を発展させつつ「自らの地域は、自らの主体的活動によってつくる」という自治活動のイメージと、「同一地域に生活する」ということにとらわれない知縁的な活動の広がりに価値を置く新たなコミュニティづくりの方向性をもとに、コミュニティ概念を次のように規定した。

 ―コミュニテイとは―

◇市民の自主的・主体的な参加により、自らのまちは、自らの主体的活動 によってつくりよりよくしていこうとする社会。

◇世代を超えた市民相互が、さまざまな活動をとおしていきいきとした心 と心のふれあいを培う地域社会。

多摩市第三次総合計画 

 第三次総合計画(平成3年〜12年)では、上記の新たなコミュニティの概念のもとに、コミュニティ・エリアを新設し、コミュニティ組織の支援・育成とコミュニティセンターの整備、および庁内体制の整備など、総合的なコミュニティ行政の推進を掲げた。さらに、多摩市の特性である地縁的コミュニティ活動と知縁的コミュニティ活動が相まった、多摩市らしいコミュニティづくりを推進していくこととしている。

@ コミュニティ・エリアの新設

 コミュニティ活動が「まちづくりの基本であり、力になる」という認識から、市民のエネルギーや創意が生きる、地域の特性に沿った、よりきめ細かな活動の場づくりが求められいてる。このため、従来の「全市域」「拠点」「ブロック」というコミュニティ施設の体系的整備のためのゾーニングを踏まえ、新たに中学校区程度の広がりを持つ17の「エリア」を設定することとしている。また、エリアを「市民がふれあい、連帯感を育み、その地域の問題を自らの参加で改善していこうとする地域コミュニティ形成のための想定圏域」と位置づけている。

A コミュニティセンターの整備

 「17のエリアを基に、世代を超えた交流が生まれ、市民のまちづくりの拠点となるコミュニティセンターを整備する」としている。これにより、平成3年4月に関戸・一ノ宮、桜ヶ丘、乞田・貝取の3つのコミュニティセンターが誕生し、以後、鶴巻・落合・南野(平成4年9月)、貝取(平成6年9月)、聖ケ丘(平成7年10月)、愛宕(平成12年10月)の各コミュニティセンターが相次いで開館している。このほか、これまで8ブロックに対応して整備されてきた地区複合施設についても、改修にあわせて地区市民ホールと老人ホールを中心に、コミュニティセンターとして発展させていくことが課題となっている。

B コミュニティセンターの地方自治法上の位置づけ

 コミュニティセンターは地方自治法第 244条の規定に基づく「公の施設」で、施設の設置および管理に関する事項は、条例でこれを定めなければならないとされている。(法244条の2@)

 多摩市は地方自治法の規定に基づき、多摩市立コミュニティセンター条例(平成3年3月30日条例第17号)を制定し、コミュニティセンターの設置目的および管理運営について規定した。     

◇ コミュニティセンターの目的

条例第1条 市民の主体的活動によるコミュニティ形成の拠点施設として、多摩市立コミュニティセンターを設置する.

◇ コミュニティセンター運営協議会の位置づけ

 地方自治法および条例の定めるところにより、コミュニティセンターの管理運営を地域住民により組織された公共的団体に委託している。すなわち、ここでいう「公共的団体」がコミュニティセンター運営協議会である。

多摩市庁内体制整備への取組み

 平成3年4月に多摩市コミュニティセンター条例が施行され、7年目を迎えた平成9年までの間に、市内に6館のコミュニティセンターが整備され、各館ごとに地域の特性や独自性に応じて、着々とコミュニティづくりの拠点としての実績や成果を上げた。その反面、地域住民による各コミュニティセンターの自主的な管理運営について「運営協議会のあり方」「運営協議会と市との係わり方」「利用者との関係」「職員雇用の問題」「事業の取組み」「会計経理の処理方法」「事務局体制」などさまざまな問題や課題が各方面から指摘された。

 これを受けて、多摩市におけるコミュニティ行政の方向性をより明確にするために平成8年8月に「多摩市コミュニティ行政研究会」が市の関係課長によって発足し、@ コミュニティセンターの管理運営の現状と課題

A コミュニティセンターの管理運営のあり方

Bこれからのコミュニティセンターの管理運営への提言

の3点を中心に検討が重ねられた。        

 平成9年7月に「多摩市コミュニティ行政研究会」の報告書が出された。しかし、この報告書は運営協議会側の考えが十分に反映されていないとして、各館の運営協議会で検討会が開かれて意見の集約が行われられた。ここでは、事務局職員の人事管理のあり方、各館に事務局長を配置すること、運営協議会の会計・経理方法などについて盛んに議論された。

 各運営協議会より選出された代表2名で構成された「多摩市コミュニティ行政研究会報告書に対しての検討会」が5回行われ、6館で共通する大筋が合意されて、検討会報告書にまとめられた。一方、市は各館で「利用者懇談会」や「利用者アンケート」を実施して、研究会報告書に対する生の声を聴取して、結果報告書にまとめた。

 これらの検討会報告書や結果報告書を含めた形で、総合的な判断をしてもらうために、地域団体代表者、コミュニティセンター運営協議会会長、学識者、利用者等による「コミュニテイセンター管理運営市民懇談会」が平成10年7月から5回にわたって開催され、11月に「提言書」として市長に報告された。

 平成10年12月に上記の報告書や提言書をふまえて多摩市生活文化部地域振興課がまとめた「コミュニティセンターの管理運営等の充実に向けた今後の取組みについて」によって、一定の方向性や指針が示された。 しかし、コミュニティセンターの管理運営のありかたおよび事業内容についての問題点や課題は複雑多岐にわたり、一挙に問題解決を図っていくことは容易ならざるものがある。各方面から指摘されてきた「公の施設」としての共通性、公平性を担保していくためには、どこまでの範囲を共通事項とするべきか、またどこからが地域性や自主性を尊重すべき個別的事項とすべきなのか、この機会に整理していく必要がある。そこで「可及的速やかに対応すべきもの」と「今後引き続き検討を要するもの」に、また、「運営協議会の自助努力により解決すべきもの」と「市とのパートナーシップにより解決すべきもの」にも分類した。

 また、コミュニティ行政研究会報告書が提言している、市民と行政の中間的立場から間接的な立場で支援する新しいしくみ「協働的なしくみ=(中間的しくみ)」としての「(仮称)多摩市コミュニティ振興協会」についてや、コミュニティ推進検討委員会報告にある、コミュニティエリアの地域課題解決やまちづくりの推進に向けての協議体の機能を持つ「地域コミュニティ協議会」または「コミュニティ推進委員会」、さらに各館の代表2名による検討会報告書の中で提案された「第三者機関」への移行についても協議していく、としている。

 多摩市生活文化部地域振興課がまとめた「今後の取組み」の最後に、運営協議会の活動に係る市の支援について次のように述べている。

 コミュニティ活動の主体は、あくまで市民自身であり、当然のことながら、各運営協議会が地域コミュニティの形成のため実施するさまざまな事業・活動についても、自主的かつ自律的にすすめられるべきものと認識している。

 これからの運営協議会の活動のあり方は、問題解決型活動の展開や、自治コミュニティへ向けた新しい取組が求められており、事業・活動に対する助成金などの財政的な支援策についても、行政の公平性の原則などを踏まえつつ、地域の特性や活動のタイプ、成熟度、独自性により、効果的かつ柔軟に行うことが必要と考えている。さらに、これに関連して、自主財源の問題についてもあわせて検討していく。今後は、市と各運営協議会が、コミュニケーションを成立させる場や共通認識を持つための媒体づくり、情報の共有化などの方策により、さらなるパートナーシップの形成を図りつつ、その支援策の検討・実施・充実に努めていく。

 

 

    参考文献

@「多摩のあけぼの」 地福 重人著 1996年

   A「コミュニティ論=地域社会と住民活動=」倉沢 進著    1998年

    B「日本経済図説第二版」 宮崎 勇著        1997年

    C「多摩市コミュニティ推進検討委員会第4次報告」      1991年

    D「多摩市コミュニティ行政研究会報告」           1997年 

    E「多摩市コミュニティセンター概要」 多摩市生活文化振興課 1998年

F「多摩市コミュニティセンター概要2000」多摩市生活文化振興課 2000年


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