座談会

熱き想いをこめて、建設のころ

 

出席者: 伊東 良和(建設協議会会長) 河内 成幸(建設協議会世話人)

     宇野 健一(建設協議会世話人) 新美 嘉彦(建設協議会世話人)

     柿沼 則子(建設協議会世話人) 志村 紀子(建設協議会世話人)

 

司会: 中野 光子(建設協議会世話人)

日時: 平成11年11月7日(日) 

 

住民による住民のための.....
司会 今日は「ゆう桜ヶ丘」発足当時、建設協議会の世話人をされて、いわば産みの親としての役目をされた方々に、主に当時の思い出、うら話などを語っていただきたいと思っております。宇野さんはその後引越されされましたので、桜ヶ丘は久し振りかと思いますが、「ゆう桜ヶ丘」にいらした感想はいかがですか。

宇野 建物に入ると、丁度ギャラリーで展示替えが行われてまして、大勢の人が働いておられました。十年たってますます活気あふれる様子がみられて、とても嬉しかったですね。

伊東  十年前、われわれがこう使ってくれたら、とイメージしたように使われているのを見るのは、とても嬉しいですね。
河内僕の場合は版画教室もありますので、いまも月に二回ぐらいは来ていますが、ギャラリーなど設計当時の僕のイメージ通り文化レベルの高い活動が行われており、近郊にもこれを越えるものはなかなかないと思います。

柿沼 十年なんて、本当にあっという間ですね。今はちょっと冷めていますが(笑)あの頃は燃えていまして、なつかしく思い出されます。桜ヶ丘地区は四丁目まであってかなり広い範囲ですが、小学校の学区もバラバラで拠点となるものがなかったから、住宅地の中にコミュニティの拠点が作られたことは画期的な出来ごとだったわけです。

司会 燃えて建設協議会に参加されたということですね。

柿沼 ええ。武蔵野のコミセンなども参考に見て歩いたりしましたね。当時、物が豊かになってきて行政の建物もだいぶ素敵にはなってきてましたが、それでも基本的には箱があって椅子と机があってという感覚でした。私たちはそこから一歩進んで、住宅地と原峰公園と三者一体となった、ちょっとぜいたくなホテルのようなものを夢見ていました。そこを舞台に老若男女を問わずコミュニケーションをはかれる場所ということでね。

新美 建設計画がもちあがったのは、丁度いわゆるバブルの天井の頃です。株もダウが四万円近く、土地も現在の三倍ぐらいだったんじゃないでしょうか。自治会サイドからコミセンの計画を聞いた時は、とにかくよいものを造らなければ、と思って参加したわけです。建設は物を造る楽しみ、家を造る楽しみでしたね。当時のメモを見るとほとんどの土曜日に集まっている。三十回ぐらいでしょうか。必ず、市議の大屋進さん、地域振興課の江原さん、三丁目の森さんがメンバーにいらっしゃった。これらの方々はこの十年の間に亡くなられました。

志村 今日は伊東さん、宇野さんにお目にかかれて十年ぶりの同窓会のような気持ちです。いま大屋議員の話が出ましたが、この建物は市の財産であり、市の文化の象徴だから、市のためにも素敵なものを造れ、といつもいっておられましたね。市は、今までと全然違う発想が出てきて、ずいぶん戸惑った部分もあったと思います。途中で、ぜいたくではないかという声もありました。しかし結局は市の理解もいただいて、こうして実現したわけですが、結果的には、あとからできるコミセンが、「ゆう」を追い越せという形で発展していますので、いいサンプルを残すことになったのではないかと感じています。

新美 「ゆう」は関戸・一の宮に次いで二番目のコミセンですが、建物の設計から住民にまかされた最初の例です。関戸・一の宮は健康センターの建物を使うことでスタートしていますから。計画段階から運営まで住民にまかされたということは、大きな意義のある事だったと思っています。

志村 最初にどういう建物が必要かみんなで考えたのですね。市による各地域ごとのアンケートがあったのですが、病院がほしいなどという声が多いなかで、この桜ヶ丘地区では美術館を求める要望がなんと30%以上もあったのです。その声が生かされた結果がギャラリーなんです。専門的なご相談で河内さんに乗っていただいて実現することが出来たわけです。


専門家の助言を得て

司会  伊東さんは一番最初から建設委員会の会長をお引きうけいただいたわけですが、その当時の雰囲気はいかがでしたか?

伊東当時、私のおとなりが前年度の自治会の会長をやめられて、どうしても後の引きうけ手がないからやってくれといわれまして、一丁目の会長をお受けしたわけです。そしたらたまたま連合自治会の当番に当っていまして、あれよという間に建設協議会の仮議長もおおせつかった次第です。雰囲気といいますと、みなさんすごい熱気で、ちょっと殺気立ってましたね。


司会昭和63年の5月に建設協議会が発足して、一年後に着工の予定でしたので、基本構想、基本設計、実施設計をそれぞれ三ヵ月ずつでまとめるというスケジュールでしたからとてもいそがしい。建設協議会と同時に世話人会も発足させて、世話人会は毎週開いたと思います。伊東さんは当時お勤めの中、ずいぶん大変だったのではないでしょうか。

伊東 みんな土曜日が出やすいということで土曜日はほとんどつぶれましたね。他の日は夜八時からとか。当時はたまたま工場の勤務でしたので少しは時間がとりやすくて助かりました。

司会宇野さんは一丁目の副会長でいらっしゃいましたね、当時。

宇野たまたま役員改選の総会に顔を出したのが運のつきで....(笑)。それで自動的に建設協議会にかかわることになったわけです。でも、あの体験は自ら進んで作れるものではなく、僕の職業、仕事にも関係するところがあって、楽しみながら学ぶことができてよかったかな、とふりかえって思っています。

司会私たちにとって宇野さんは救いの神的存在だったんですよ。喧々がくがく色々な意見が出て、これをどうまとめたらいいのか、素人集団が途方にくれている時、宇野さんがこれを引き受けて下さったのです。さすがに専門家、単なるアンケートのまとめではなく、基本的理念から始まるすばらしいレポートが出来あがりました。市の方も、予想以上の成果と評価して、他地域の建設協議会ができた時も、「ゆう」がモデルで基本構想が提示されたと聞いています。

新美宇野さんや河内さんの専門的な助言によって、「ゆう」は当初の計画よりスケールが大きく立派になってゆきました。金額的には知りませんがね。専門家による空間の取り扱い方やレイアウトを土台にして、市側に働きかけて、とてもいい形に進んだと思います。それをお人柄でしっかりまとめて下さったのが伊東さんです。

河内ぼくは「ゆう」ができてからも二年ほど運営にもたずさわりましたが、本当にむずかしいのは運営ですね。この十年をふりかえって、このむずかしい運営はとてもうまくいっていると思います。ただ欲をいいますとある年齢の世代、いまバリバリ第一線で仕事をしている世代が少しここに入って来にくい状態ではないかと思います。

司会;「赤ちょうちん」構想....。会社帰りにちょっと立ち寄って、同じ地域なのになじみのない人たちと一杯やってコミュニケーションをはかれたら、という夢でしたね。

河内宇野さんたちと話したイメージ、ロビーのコーヒー喫茶はまだその役を果たしていませんからね、残念です。残念というか、未来にそうなるかどうか、ちょっと楽しみでもあります。

新美 河内さんのギャラリー構想、宇野さんの基本構想はとてもうまく今も機能していると思います。それからここは児童館といっしょなわけですが、さきほど柿沼さんがいわれたようにここは学区がバラバラなだけに、ここに児童館ができたことは、とてもよかったんじゃないかと.....。

河内そうですね。児童館によって下の年齢層の利用がある。さっきも申したように、年齢層の上と下は問題ないんですよ。上はお風呂があったりシルバーサロンなどでおいでになる、下の方は児童館に来る。問題は中間です。

志村  何かいい方法はありますか?

河内いろいろ問題はあると思いますが、「ゆう」がもっと幅広くなれるといいんですが。いつか、暴走族風の人たちが来て問題になった事がありましたね。ロビーでお茶のんで椅子をこわしたとかで、みんな心配してお巡りさんを呼んだりしましたが、勿論破壊行為はいかんが、たちまち排除と直結せず、そういう連中もここに来られる要素はあった方がいいんじゃないかと思うんです。そういう子供たちも、ここである人と巡り合って感動したらお祭りの実行委員ぐらいやってくれるかも知れない。彼らがここに来るということは、「ゆう」に来やすい部分があったからでしょう。そういう部分を含めながら若い人を考えていかないと。あれもこれも駄目という形になってしまうと次につながっていく施設にならないと思うんです。

柿沼桜丘駅前にできたヴィータなどは、音楽を自由にやれるよう防音室があって楽器もそろっています。若い人たちの利用しやすい場所といえます。残念ながら「ゆう桜ヶ丘」は思いきり音楽をやって発散できるようになっていないんです。

志村ホールUがその可能性のある部分でしたが、児童館部分になってしまって、夜六時からしか使えません。

いささかの反省点

司会しかもいまはどちらかというと物置のようになっています。その他、ここで少し反省点も拾い出してみましょうか。

志村ここで働く方のことを忘れて更衣室がないんです。事務所のスペースもなくなってしまって児童館といっしょになりましたが、こちらの方は児童館と運営協議会のコミュニケーションが十分にとれて、結果的にはかえってよかったと思います。それから駐車場問題。斜面のあるこの土地の特性を生かして中地下を作って駐車場か雨の日も使えるゲートボール場を、というプランもありましたが予算的に無理ということになりました。

柿沼地域の人が集るのだから駐車場はいらない、ということになったんですが、物の搬入や、ますます高齢化が進むことを考えるとやはり駐車場は不可欠だったような気がしています。

司会三台分しかなくて、ひとつは身障者用、ひとつは児童館、ひとつは市のメインテナンス用ですから、市民利用はひとつもない。高齢者から、遠いので歩いてはいかれなくなったという声を耳にすると、とてもつらいですね。

志村最初の考えと違って、あまり使われないのが畳の部屋です。高齢の方の利用にはとにかく和室という既成観念みたいなものがあったわけですが、高齢になるほど足が痛くて座れない方が増えるのはあたり前のことだったんです。シルバーサロンの畳の部分も床だったら、もっとゆったり使えたと思います。和室部分はなくてもよかったと思います。


新美老人会の会合が東寺方で行われている理由は、それだけではないんです。先の駐車場問題にも関連するかも知れませんが、ミニバスが通るようになって、東寺方の体育館前で降りるととても便利になったんですね。でも、またお世話になる日もあるかと思いますよ(笑)。それから次はトイレの問題、結局は和洋両方そなえることにしたわけね、これも高齢者には、他人の座った所に座るのは抵抗感があるとか、なんとなく老人は和式みたいな固定観念があったが、どっこい老人ほどしゃがむのが駄目で、これも間違っていたかも知れませんね。

志村設計の方が、トイレは建物全体のイメージを決定するポイントだ、といわれてここはぜいたくに作られていますね。

柿沼いまはドライブインみたいな所でも、ずい分きれいになりました。時代を先取りした設計でよかったですね。

河内児童館の工作室については、もっと相談にのってやれる部分があったと思っています。昼間は子供達がお絵かきなどに使って夜はわれわれが版画教室などをするということですが、いまは倉庫化してしまって半分は使えない、荷物でね。これは児童館にばかり押しつけずに、片付けなどはいっしょに考えないといけませんね。

司会ここは最初から倉庫部分が少ないとは指摘されてましたね。

河内工作室は作業台があって、ちゃんとガスを使って理科のちょっとした実験とか、七宝焼きなどができるように考えられているんですが、いまはガスホースを使えるような状態にはありません。とてももったいないと思います。

司会会議室もホールも、できるだけの広さがほいしいという中で、ぎりぎりの選択をしたのですけれど。ホントに物置はほしいですね。

志村でも各部屋に机と椅子を収納できる倉庫を最小限でもつけたのはよかったと思います。他の館をみると、部屋の半分に机と椅子を寄せて、半分しか使えない状態になっている例もあります。

司会欲をいえばきりがありませんけれど、住民の熱意や大屋さんのお力ぞえで千二百平米から千五百平米になったのですが、あと二百ぐらいあったら、なんて思いますよ。

新美スペース問題だけでなく、金額的なプレッシャーはなかったのですか。

司会お金の面ではかなり幸いだったと聞いてます。バブルで建設費がうんと高くなる直前に契約してあったおかげで、ずいぶん助かったんだと。後からできた乞田ふれあい館などの方が平米あたり単価が高いようですね。

志村幸いに土地も早めに確保してもらったから、わりにすぐできたんです。後の館は土地の買収からしなければならないので、なかなかはかどりません。いろんな意味で「ゆう」はいい時に作られたんです。

伊東原峰公園を上手に取り入れた建物にできたこともよかったですね。ロケーションがとてもいい。

本当のコミュニケーションを求めて

司会この辺で、もう少しくわしく宇野さんがまとめられた基本構想についてお話しをうかがいたいと思います。

宇野基本構想ですから、どちらかというと理念的であまり具体性を伴わないんですが、ご承知のように最初ここは林だったんですね。ここに延で床面積に千二百、二階建て、敷地は原峰公園の南側をかき取るような形で三千平米。市の見通しはこんなことだったんです。木は乱暴ないい方をすると、切っても植えればまた育つ。しかし地形だけは一旦造成してしまうと、元通りにするのはほとんど不可能ですね。可能なかぎり地形を生かして建物をつくり、利用しながらも昔の風情に惹かれる、建物ができてもかつての面影が記憶として残る、そういうものにしたかった。それを具体的に書いたのが断面図であったわけです。

新美   その構想はいつできたのですか。

宇野63年の7月ごろでしょうか。平らな土地に建物が一棟乗るんではなくて、市民ホールみたいなものが公園のそばにあって、そのまわりにお年寄りのスペース、子供たちのスペースなどが森の中に沈むようにある。まわりはほとんど森。子供たちがちょっと外で遊びたい気分、高齢者がちょっと森の中を散歩でもしようか、そんな雰囲気がいいんじゃないかと。予算その他、いろいろあってその通りにはなりませんでしたが、まあ、結果的に使われ方はそうなっているから、当時の考え方が少しは反映しているかな、と思っています。

司会宇野さんはその時、夏休みを返上して理念の文章も作ってくださいました。その基本理念は現在の「ゆう」にも生かされていると思っています。

宇野推測しながら考えていたので、はずれている部分もあるかと思いますが、桜ヶ丘に住んで六年、うちの子が当時四歳ぐらいでしたから、そのご両親世代の若い人とのお付き合いもありましたが、やはりお年寄りの多い街だな、という印象はまぬがれなかったですね。それとコミュニティがなんとなく希薄ということ。僕の場合、出身が島根県なので、故郷では今だに幼少時代のコミュニティというものがすっぽり存在してるんですね。こういうコミュニティが自然なものと僕は思うんです。言葉ではかっこつけてコミュニティ・ルネッサンスなんていいましたが.....。

河内宇野さんもそうかと思うけれど、僕なんか年代的に忙しすぎて夏祭りなども、つい忘れてしまう。すると前日誰かに電話でさそわれたりして、じゃ出てみようか、ということになる。無理にでも引っぱり出してくる。それがないと、越してきて十年にもなるのに、ご近所とあいさつもしないなんていうことになる。

志村宇野さんや河内さんとか、年代の若い人たちに参加していただいて、まったく違う発想が生まれたと思います。自由人が入ってくれることはコミュニティが豊かになることで、ほんとにスタートがよかったなあと思っています。

河内都会では近所の子供がいたずらしていても横目で見てるだけ。どこの子供なのかわからない。だけど昔は、田舎では柿ひとつ取っても近所のおじさんにおこられたり、あそこのガキはわるガキだと言われたり、みんなにちゃんとインプットされるんですね。これくらいの地域ができていればサカキバラセイトなんかの問題はなかったんじゃないでしょうか。桜ヶ丘なんかも、皆さんのお孫さんが住む頃に、これがなくなっていたら、ずい分さびしい地域になってしまう。

変わった部分 変わらない部分

司会どうでしょう、昔から十年ひと昔なんて言いますが、このひと昔を考えてみて「ゆう桜ヶ丘」はどのように変化していったとお考えでしょうか。

河内建設協議会の頃は、個人の家のパーティーのような雰囲気のものが、ここで自由にやりたい、それにはある程度の収入を得て、専従の従業員もおいていろいろ目配りができる、こんな話もありました。大屋議員も「コミセンがある程度の利益をあげても、公正な還元が市民にできるならいいじゃないか」と言っておられた。ギャラリーではプロの展覧会や講演ができてもいいと思うんです。それには市の援助だけではできないから、収入を得たいという話はあったんです。

新美市はそれに対して、猛烈に反対しましたよね。

河内ここは複合施設だから、お金はいかんということ。赤ちょうちんにしても、利益はみんな市が持っていくということでは力が入りませんよ。ギャラリーなども自由に絵が売れるようにして、売り上げのなんパーセントかを協議会に入れて使おうという、普通の画廊方式も考えたが、それはいかんということです。それでは収入源がないから、ただでやってくださいというのではよい企画をやりたくてもペースが落ちるのは当然です。

志村最初は建物は提供しますから、それを生かして市民の発想で特色を生かした運営をどうぞ、ということで出発したのです。職員に支払う給与の額もある程度まかせられていたほどです。それが他のコミセンがたくさんできて来ると、建物は市のものだということで、すべて市の管理が強まってきましたね。すべて横ならび、よその館と同じでなければいけない、ということですね。最初の地域の特色を生かした運営という理念はどこかに行ってしまいましたね。ある程度はしかたがないとは思いますが、規制が強まったのは事実です。

新美ますます画一化されて、それでいやになって活動をやめていくというケースも多いですよ。

志村建設当時、私はここを利用する人は自分たちの税金でできているのだから、ということではなく、利用しない人もいるのだから、ある程度ペイするぐらいの利用料を出すという方向にしたらいかがですか、といいましたが、市では税金で作ったものだから市民からいただくわけにはいかない、ということでしたね。もう少し自己負担分を多くしておけば、財政的にはゆったりした運営が可能でしたね。

柿沼市も最近になって受益者負担なんていい出しているんですよね。十年前と経済状況も変わってきていますから、市の考え方が変化するのも、しかたがないと思いますけど.....。いまも当時のことで思い出すのは亡くなられた地域振興課の江原さんの言葉ですね。「すばらしい建物はできたけれど、これに魂を入れられるのは、あなたたち住民以外にはいないんだ。」とね。

司会市のいろいろな規定の中で、どうやって特色のある運営をして魂を入れてゆくかというのは大変な仕事です。音楽家をお呼びしようとしても、すぐぶつかるのが謝礼五千円という規定です。今度少し緩和されはしましたが、それでも質のよいものを求める住民の声とこれと、どう折り合いをつけていくか、大問題ですね。
新美「ゆう桜ヶ丘」の一番の特徴は喫茶コーナーとギャラリーの二つでしょうね。

伊東そうですね。これは十年たった今日も変わっていません。地域情報の発信地といいますか、フリーなコミュニケーションの場として桜ヶ丘にふさわしいものを作りたいということで実現したのが、いま新美さんのいわれたロビーでしょう。今までの施設にはないものですね。

志村いままでのこうした施設は、何か目的がなければ行かない場所だったのです。お部屋を借りてサークル活動をするとか、おけいこをやるとかね。でもこのロビーは一人ぶらっと来ててコーヒーを飲んで新聞が読める。そしてお友達ができる。これはうまく機能しているんじゃないですか。

司会それに、広いスペースを利用して、時にはコンサートや国際交流のパーティーやバザーなんかもやれます。

新美宇野さんの基本構想や河内さんのギャラリー構想とか、このロビー部分などに十分に生かされていて、それは十年たった今も少しも変わっていません。きっとこの精神は開館二十周年、三十周年を迎える時代まで引きつがれると思うし、またそのようにしなければいけませんね。



司会それには河内さんも先ほどいわれたように、いま働き盛りの世代の方たちの参加もうながす努力をしなくてはなりません。これからの運営にますます責任を感じます。

では、こんなことを結論に致しまして、本日はどうも有難うございました。


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