産経新聞社会部編『東京風土記IV』昭和37年3月10日初版より抜粋

多摩丘陵の関所跡

京王線聖蹟桜ケ丘駅前を左右に交差する細い道には、ちょっとした商店街がある。
商店通りを右に進むと,多摩川の土手にそって、近年できた住宅地に行く。そのあたり,
川沿いはどんどん住宅地化していく。
駅南の舗装道路を東に500メートルほど行くと、左右に交差する道に出るが、ここを
左に行くと多摩川にかかる関戸橋を渡って府中市に行き、右は鎌倉へと続く鎌倉街道
である。

右に進み、大栗川にかかる橋を渡って関戸部落に進む。左右は多摩丘陵のガケが迫り、
街道はその中間の谷間をとおっている。ここは鎌倉にとって北の入り口であり、また
守りであった。だからここには関所がおかれて守備されていた。関戸というのは関所の
入り口の意味である。昔は川の渡しとか山の峠とかには治安のための関所がおかれたもの
だが、小田原北条時代には通行税ともいうべき関銭を徴収したものである。
ほどなく道路の左側に高圧線鉄塔がある。その反対側に関戸駐在所があるが、このあたり
に関所がおかれていた。

駐在所のすぐ南隣が多摩丘陵ハイキングコースの入り口である。そこを登ると、すぐ右手
駐在所裏に大きなナラの木が生えた塚がある。これは、太平記に有名な元弘の戦い
(新田義貞の鎌倉攻め)で戦死した北条方の武将横溝八郎の墓である。府中の分倍河原の
古戦場も、今とおってきた鎌倉街道筋もその頃の古戦場であった。

ハイキングコースを登ると、道は2つになり、左は延命寺で右は百草園(もぐさえん)
に行く。延命寺は、江戸時代に万葉用字格の著者として知られる僧春登が1823年
(文政6年)に閑居したことがあるので有名である。

百草園への道を進むと、丘陵の上は京王の桜ケ丘団地建設中で、かっての緑の丘は
ブルトザーによって平地化されて昔の面影はない。この山稜のコースを西にたどると、
天主ケ台と呼ばれる城址がある。鎌倉街道を守る見張り所があったところで、深いカラ掘が
残っていて、金毘羅神社がある。

鎌倉街道に戻って南に進む。右手に熊野神社がある。ここは鎌倉時代の南関所木戸が
あったところで、霞ヶ関と呼ばれていた。昭和34年に参道南側を発掘したところ、
関所木戸のクイを打った一列のクイ穴跡が発見された。

更に進むと、右手高台に小学校がある。見晴らしのよいところで、その隣に多摩村役場
がある。反対側は診療所になっているがこのあたりは古市場とよばれていて、はじめ
関戸市場が開かれた跡である。
室町時代の後期、小田原北条氏の勢力がのびたころ、農民は土地と固く結び付いて農産物
は増産され、商品交流が盛んになると、商人が現れて市が開かれ、関戸宿がつくられた。
1564(永禄7年)には、3日、9日の市を開くことが認められ、伝馬を常備する
ことになった。聖蹟桜ケ丘駅南方の有山部落に住む有山源左衛門が宿駅を指揮し、彼を
中心とする六人の委員会が設置され、関所経営、郷村管理の方式がとられ、悪質役人を
追放したのであるが、これは関戸商人の富豪を示すものであり、新しい社会現象の出現
として地方史に特筆されることであろう。
北条氏は市場の保護政策を取ったもので関戸新宿にたいしては、7年間は荒野とみなして
無税地とする恩恵を与えている。

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