産経新聞社会部編『東京風土記IV』昭和37年3月10日初版より抜粋

遺跡と悲恋の伝説

乞田から路を北に進むと大栗川(おおくりがわ)の流域に出る。道は東寺方から有山を通り、
聖蹟桜ケ丘駅へ行く。 南方の旧鎌倉街道からくると、乞田川を渡って北に直進する
ことになり、鎌倉街道の裏通りとなる。

東寺方に向かう途中で、道を西に取ると、丘陵の北斜面のふもとにある後原(うしろばら)
部落< となるが、ここに稲荷塚(いなりずか)古墳がある。

もともと大栗川流域には、多くの古墳郡があったが、稲荷塚はその中で最大のものである。
塚の上に稲荷神社を祭っているので名付けられたものである。古墳は横穴式の朝鮮型で、
八王子北方の大谷で発見された大谷古墳と同型のもの。帰化人の居住分布を知るには
貴重な存在である。巨大な石は、大栗川岸から運んだものだろうが、どのようにして運ん
だものだろうか。古墳の原型がくずれないように、古墳上に小屋を作って保存している。

すぐ近くの臼井家の屋敷内にも古墳があり、少し離れるが、道ばたには庚申塚(こうしん
ずか)古墳がある。このあたりは塚原といわれるほどかなり数多い古墳があったが、
開墾のためにくずされてしまい、三つだけ残ったものである。

この付近には、原関戸、関戸並木、下原、後原などの地名があるところをみると、鎌倉街道
と縁故のある裏街道筋であった。前述の稲荷塚古墳は恋路稲荷とも呼ばれ、古墳の南の
畑地には恋路ケ原ともいったという。また鎌倉沢とか女沢と言う所もある。女沢には鎌倉
時代に遊女が住んでいたという伝説が残っていて、恋路というのはそのひとりの名であった
と言う。恋路は相恋の武士といっしょになれないのを嘆いて投身自殺したと言うが、この
伝説は国分寺町の恋が窪に残る畠山重忠と夙妻(はやずま)太夫のロマンスと似ている。

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この京王線は、東八王子駅と府中駅間に開設された私鉄の玉南鉄道会社線が大正末年に京王電鉄に買収された線である。