II

 コミュニティ施設の建設

1

 桜ヶ丘地区にコミュニティ施設を 昭和56年に打ちでされた多摩市第二次総合計画の基本的政策第1項に「連帯感豊かな心のふれあうまちづくりをめざして、コミュニティとはなにかの理論から、コミュニティ活動を推進するための拠点としてコミュニティ施設の整備を行う」とあり、市はこの線に沿って準備を進め、内部の考え方が固まってきた。昭和62年10月に、市としてはじめてのコミュニティセンターとなる現在の関戸一ノ宮コミュニティセンター・つむぎ館の住民による運営委員会が発足し昭和63年の開館にそなえた。市の企画構想から実に6年余かかっている。また、この頃住民のための施設なのだから、計画段階の初期から住民の意見や希望を聞いて施設を造るべきだという考え方が市側の関係者や先進的な住民から生まれ、桜ヶ丘コミュニティ施設の建設は住民による建設協議会の発足から始まった。桜ヶ丘の用地は、昭和59年に原峰公園用地として市が取得したものである。この用地は、現在の原峰公園とゆう桜ヶ丘建設地を含み、当時は山林であった。桜ヶ丘12丁目に隣接し、防災訓練に使われたり、近所の子どもたちの遊び場所にもなっていた通称三角公園とそれに隣接する鉄条網に囲まれた山林で、犬の散歩などで足を踏み入れた人もあったようである。桜ヶ丘町内には、集会所はあったものの、小学校も中学校もいくつかの学区に分かれていて、まとまって住民が活動する拠点を持たなかったので、この地区に新しい構想の住民のための施設を招致することは大きな意義があった。昭和59年の用地買収の頃、コミュニティ施設を建設しようという話がすでにでていたようである。施設招致には、市の関係者は勿論、当時地元選出の大屋進市議会議員の活躍は見逃せない事実である。桜ヶ丘が市民参加の建設協議会設立から始まる施設づくりの地区として最初に選ばれた理由は次のようなことであろう。@ 用地があったことA コミュニティを醸成するための施設をほかにもたなかったことB 当時は高額納税者が大勢いたことC これら、高額納税者が桜ヶ丘地区に税金を還元する施設を望んだことD 多摩市第二次総合計画の基本的政策にコミュニティセンターの構想が盛ら
れていたこと当時、多摩市のコミュニティ施設としては、市民ホールと老人福祉施設があったが、市役所の異なる部門で管理・運営されていた。桜ヶ丘地区に建設される施設は、複合的なものという考えから、建設協議会は「桜ヶ丘地区複合施設建設協議会」として発足した。

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建設案を住民に提示

 昭和63年

36日付の『「地域の活動にふさわしい施設づくりを」〜(仮称)桜ヶ丘地区複合施設建設説明会』というB415頁の資料が残されている。しかし、参加した人の名簿も会議記録も残っていない。当時、桜ヶ丘地区の地区計画作成のために4町会合同で委員会が設置されていた。そこに参画していた桜ヶ丘連合会会長の安部武彦さんの話によると、この施設建設のための委員が募集されると市から説明されたそうである。当時のことを安部さんに尋ねたが、全然記憶にないといことであった。今となっては、36日の説明会がどんなものであったのか定かでないが、この時の出席者はわずかであったらしく、これでは建設協議会の発足にこぎつけられないと考えたのか、仕切りなおしになったようである。  

 昭和63年

514日「(仮称)桜ヶ丘地区複合施設建設の説明会」が改めて行われた。この説明会は、市広報で知らされると同時に、自治会役員、青少協役員、小学校PTA役員、幼稚園母の会役員、東西の桜寿会役員、公民館で活動している団体で代表者が桜ヶ丘の住民である人などに、説明会の案内が送付された。説明会は、桜ヶ丘集会所で行われ、市側は市長をはじめとして企画部、福祉部、都市建設部からの担当者が出席。住民側からは、大屋進市議会議員をはじめとして上記団体の関係者など、およそ65人くらいが集まった。市から「地域の活動にふさわしい施設づくりを」という前記資料が配布され、会場は熱気に満ちていた。ここで、基本的考え方として、設計の段階から市民の参画を得て市民の英知を活かした施設づくりに努め、市民にとってより身近で地域に密着したコミュニティ施設としていくとともに、地域の特性を大切に、市民の自主的・主体的な管理運営を進めていくことが強調された。

施設の概要は、建設予定地

貝取1627番地(原峰公園隣接地)建設費用 約4億円施設規模 1,200u基本機能 老人福祉、地区市民ホール、児童館

であり、他地区にある複合施設と同等の規模と機能を持ち、市民の創意が活かされるという条件がつけられた。

建設スケジュールは、昭和635月から3か月で基本構想をつくり、次の3か月で基本設計、次の3ヶ月で実施設計をまとめる。昭和644月に契約手続を行い工事着工、昭和65年オープンという、全く時間的な余裕のないものであった。

3

建設協議会の発足と組織説明会で資料説明が終了した段階で、ここに集まった人全員を建設協議会委員として建設協議会を立ち上げることが市から提言された。「(仮称)桜ヶ丘地区複合施設建設協議会」の発足である。市の資料によると65名が参加して発足となっている。さらに、建設協議会の組織に世話人会を置くことになり、有志が隣室に集まった。市の予想を超える20数名が集まり、その人たち全員で世話人会を立ち上げた。世話人会はしばしば会合を開き、建設計画を検討し、建設案にまとめて、節目節目に、進捗状況を建設協議会に報告して、意見交換をしたり、承認を得たりすることとした。この日の世話人会は、自己紹介からはじまり、議長、副議長、書記の3人の役員を選出して解散した。議長は、桜ヶ丘自治会の連合会長に着任間もない伊藤良和、副議長は老人問題をいろいろ勉強しているという関口悦子、書記には、サークルの代表としてたまたま説明会を聞きに来ていた中野光子が選出された。この時の名簿を見ると、現在も桜ヶ丘コミュニティセンター運営協議会委員や幹事として地域のコミュニティの醸成に尽力している人が多数いることは、コミュニティづくりには大変時間がかかることを示すと同時に、運営協議会はボランティアという自発的意思で支えられている組織であることを示していると思う。

4

建設協議会での議論2回の世話人会では、桜ヶ丘にふさわしい複合施設としてどのようなイメージが描けるか話し合われた。その主な点は次のようなものである。

◇  自然を残し、原峰の林に合った建物に。

◇ 地形、地のりの利点を活かしたい

(1階建てか2階建てか)

◇ 室内体育館的な広いスペースをとり、目的や用途により使い分けること

  ができる構造とし、仕切り等に配慮する。

◇ お年寄りのスペース、子どものためのスペースを分けず、同じフロアー

のなかで交流する場が必要である。

◇ 外観はロッジ風とし、ホテルのロビー感覚を盛り込む。

◇ 桜ヶ丘集会所との整合性を考える必要もある。

◇ 調理室的な部屋も必要。

◇ 風呂場は必要か?シャワー室でも良いのではないか。

◇ 舞台は必要か?

◇ 身体の不自由な方が利用できるよう考える必要がある。

◇  木造建築が望ましく、稲城地区の複合文化施設ファインフォーラムのよ

うに手作り感覚を盛り込みたい。

 また、我々が造ろうとしている複合施設とはいかなる施設なのかを勉強するために、世話人会の人達で見学会を行った。三鷹市や武蔵野市などの先進のコミュニティセンター・地区市民ホール、多摩市の先輩施設である関戸一ノ宮市民ホール・老人福祉施設などを熱心に見学した。

見学会のバスの中で、桜ヶ丘地区ではどんな施設が要求されているのか、協議会委員64名全員と桜ヶ丘の児童を対象にアンケート調査する必要がある、という提案があり全員の意見が一致した。早速、アンケートをつくり、集計作業が行われた。集計方法として、児童のための空間・老人のための空間・住民のための空間の3つに整理して特性要因図にまとめることとし、特性要因図作成作業は市が担当することになった。世話人会には、当時の福祉施設課の江原さん、企画課の渡辺さん、建設課の飯高さんが常時出席して資料の作成や整理にあたり、次回会合に検討資料が提出された。特性要因図も次回の世話人会に提出された。集計結果と世話人会で話し合われたことが基本構想作成のポイントになった。基本構想をまとめるまでの期間は3カ月である。昭和63年8月の第2回建設協議会に間に合わせるために、世話人会は毎週土曜日に開かれた。アンケート調査、特性要因図、その他の資料を検討し、桜ヶ丘の施設にどのように反映するのか、賑やかに討論をした。特性要因図は正反対の意見も載っていて、これらの調整も大変であった。しかし、「こんな施設が良い。あんな施設にしてほしい。」と、期待と希望に満ち満ちていて、みんなこの会合を楽しみに出席してきた。ところが、世話人会がアンケート調査や特性要因図などの資料、みんなの喧喧諤諤の意見を集約しなければならなくなった時、どうやってまとめたらよいのか途方に暮れてしまった。しかし、このとき幸いにも世話人の中にプロの建築家がいたのである。1丁目の自治会副会長の宇野健一さんである。宇野さんが、大切な夏休みを返上して、基本構想にまとめてくださったのである。この基本構想の理念は、いまでも桜ヶ丘コミュニティセンター運営協議会の会則の前文に取り入れられていて、我々の運営の根本精神になっている。基本構想は、1.基本理念について2.建物の構造について3.建物の配置について

からなり、その専門的な素晴らしいまとめ方に世話人会全員が感服した。世話人会ではこの基本構想をもとにして、さらに自分たちの求めていることについて具体的な部分にまで議論を進めた。

建物についての主な意見は次のようなものである。

 1

. コミュニティセンター・老人福祉施設・児童館の3つの施設で共用できる
   ものはひとつにまとめる。

 2

.  老人のための空間といっても、老人も市民であるから市民ホール的な部分
    として共有できるものは共有する。

 3

.  老人のための空間のなかに「風呂は必要か?」シャワーの方がよくないか。

 4

.  子どもの空間として、子どもたちのもっとも喜ぶ空間は何か。

 5

.  らくがきゾーン、音を思いきりだせる空間、角を丸くする など考慮する。

 6

.  風呂のロッカーに鍵は必要か? 鍵を持ち帰りロッカーを私有物化する恐
    れはないか。

 7

.  建物は木造2階建て、傾斜を利用して半地下にする。

 8

.  子どもたちの空間は出入り自由の出入り口をつくる。

 9

.  原峰公園の中に陶器を焼く釜をつくってほしい。

10

.  学習室をもう少し多く、ホールは音楽のためのものと体育のためのものと
    もっと広いスペースが欲しい。舞台も欲しい。学習室Tは二分する案もあ
    った。

11

.  建物は木造が良いが、これだけの大きなものは木造では無理。

5

 桜ヶ丘地区におけるコミュニティセンターの理想と目標桜ヶ丘地区におけるコミュニティセンターの理想については、建設協議会のアンケート調査や世話人会の数度の話し合いを受けて、基本構想に盛り込まれたマスターコンセプトおよびサブ・コンセプトにすでに語り尽くされている。

基本構想案から抜粋すると、次のようである。

※マスターコンセプト

出合うことからはじまるコミュニティそして文化

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街の情報発信基地チェリーヒル・フォーラム-----私達の住む桜ヶ丘は、基盤が整えられてから既に20年が過ぎました。その間、 居住者のたゆまない努力によって非常に美しい街並みが形成され、それが維持されてきました。しかし、これまでの街づくりはどちらかというと道路や下水道といったハードが主体で、居住者によるソフトな街づくりのシステムが欠けていたのではないでしょうか。成人式を終えたばかりの桜ヶ丘が現在の環境を守り育てていき、そして立派な大人に成長していくためには個人個人の努力は当然必要ですが、高齢化がさらに進むであろうこれからは、居住者がお互いに協力し助け合っていくことのできるソフトな地域コミュニティシステムがより強く求められるであろうと思われます。そういう意味で桜ヶ丘の街づくりあるいはコミュニティ活動は、今大きな転機にさしかかっているといえるのではないでしょうか。私達は桜ヶ丘地区複合施設にコミュニティサポート機能を期待して、マスターコンセプトを次のように考えます。 コミュニティ・ルネッサンス――地域コミュニティの復興――

※サブ・コンセプト

◇ 地域へと開かれたコミュニティ・サロン

児童からお年寄りまで老若男女を問わず、地域へと開かれた幅広い利用への対応が可能なコミュニティ・サロン

◇ 地域文化醸成のためのカルチャー・センター

人と人、人とものそして人と文化の共生を実現するカルチャーセンター

◇ 地域コミュニティや街づくりの情報発信基地

狭義のコミュニティ活動や街づくり活動をサポートする情報発信基地

◇ 自己実現、自己表現をサポートするライフ・ステージ

自分自身を活き活きと表現できる機会と場を備えたライフ・ステージ

◇ 自分達の手で管理・運営されるライフ・インフォメーション・センター

人と人、人ともの、人とこととの出会いや情報交換をサポートするライフ・インフォメーション・センター

(生活情報拠点)

◇ 恵まれた自然環境との共存・共生

6

 理想実現への具体的内容桜ヶ丘地区複合施設の建設は基本構想・基本設計・実施設計を経て、いよいよ建設に取り掛かるのである。ここで大きな問題となるのは、どんな設計事務所がこの施設の設計に携わるのかということであるが、これも世話人会から市に対して一番良い設計事務所になるよう要望した。

9

月末の第8回世話人会で、設計委託者である雄建築設計事務所の永田承司さんが紹介された。はじめに永田さんからだされた基本設計はごくありきたりのものであった。しかし、永田さんはすぐにこれは建設協議会が望んでいるものと違うと感じられて、世話人会の意向や雰囲気を肌で感じるために、世話人会に何回か出席された。細かい部分について世話人会の希望を聞き、具体的にどんな雰囲気のどんなスペースを望んでいるのかを知るために、世話人会の終了後、世話人と一緒に稲城市や八王子市の施設を見て回った。ギャラリーについては、河内成幸が銀座のギャラリーに何度かご一緒して研究されたということである。住民の意向を充分反映して、いつまでも愛され利用される施設にするためにという建設協議会世話人会の熱意が設計者にとどき設計者の熱意をあおっていたと思う。こうして永田さんは3回も図面を書き直して下さったのである。基本設計の図面ができるまでに世話人会は5回開かれたが、我々の希望の建物にするには、当初の計画容積1200uを上回り、どうしても1500uになってしまった。当時は好景気であったことと、住民の意向が大変重視されるようになっていたこともあるが、何より建設協議会・世話人会の熱意が市の担当者を動かし、加えて大屋進市議会議員の働きかけも功を奏して、1500uの建物が承認された。

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月末に第3回の建設協議会委員会を開催し、基本計画案の承認を得た。このあと、各部屋の設備や備品などの細かい打ち合わせを行った。この頃の論点は、ギャラリーとロビーの間仕切りや自販機をどうするかなどであった。これは、実施設計になると、かなり専門的になり予算も絡むので、市の方での調整にかなりの部分任せることになった。215日の第16回世話人会の後は、極く少数の役員会が主に催された。昭和64年昭和天皇が崩御され、元号が平成になった。建設協議会が発足して約1年である。215日の第16回世話人会の後、ごく小人数の役員会が数度あった。この頃、建物の建設本体部分の地質調査や擁壁部分の地質調査が完了し、土地を造成しなければならないという問題がおきた。樹木1本切るにも東京都の許可が必要で、造成工事に1年かかり、建設にとりかかるのは1年後平成2年、施設オープンも予定より1年遅れることになった。こんなことなら、もっとゆっくりじっくり話し合いの時間が取れたのにとも思ったが、どうしてもこの時間内に結論をださなくてはという思いが、みんなを一致団結させ、一気呵成にできたのかもしれない。

7

月の第4回建設協議会委員会で設計完了を報告。あわせて桜ヶ丘地区複合施設に愛称名をつけることが提案された。その後2回の役員会を経て、1024日の第17回世話人会で、愛称名は公募することにして、工事日程と一緒に自治会回覧板でお知らせすることにした。愛称名は、平成2年の21日から331日まで募集した。集まった応募点数は118点、応募人数は32名であった。平成元年10月に土地の造成工事が着工され、 平成245日に、建物の建設工事に着手。建設協議会は、平成2512日第5回建設協議会委員会を最終回として、経過報告、工事スケジュール、愛称名選考方法と運営準備についての提案を行い、解散した。これからは桜ヶ丘地区複合施設運営協議会設立に向けての準備が始まるのである。まず運営協議会設立に向けての準備会を組織しなければならない。建設協議会の世話人として活動された方は、引き続き運営委員になってほしいという要望が市からされた。建設工事は平成34月オープンを目指して、突貫工事のようだった。

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