ケ丘2丁目に住んでいらっしゃる地福さんがこの20余年、市内各所を訪ね歩き、
     古老の話を聞いてまとめあげた研究成果をまとめられ出版なさいました。我々の住む
     多摩市、我々の住む桜ケ丘についての郷土史で、多摩市史談会の機関誌「郷土たま」に
     掲載されたものです

     『多摩のあけぼの』 地福 重人著 平成8年3月15日 発行   


      地福さんのご了解を得て、今回「ゆう桜ケ丘ホームページ」に掲載することにしました。
    第1回は、当桜ケ丘に関連する「琴平神社と金比羅山」をとりあげました。現在の住宅
    地になる前の状況など、興味深いお話です。



『琴平神社と金比羅山』 目次と概説 まえがき 1.琴平神社 (1)昔の神社: 1町目にあるこんぴら様のお社の昔のようす。              「呪いの松」もあったとか。 (2)神社の罹災:昭和33年火災により焼失。関戸の文化人・相沢五流の残  した武者絵とお祭り風景。 (3)建立は何時なのか: はっきりしないが文化八年(1881)以前か。 (4)琴平神社の由来:祭神は、大国主命か 印度のクンビーラか。       「こんぴら船 船 シュラシュシュシュ」ってどういう    意味? (5)その他の琴平社:和田と落合に。 2.今比羅山の今昔 (1)京王団地:昔は標高132メートルの金毘羅山。 赤松と山桜の名所だった。 (2)奉仕会道場:昭和の始め、この地に健康的遊楽地計画があったが、戦争 により、奉仕会道場、軍隊の宿舎、防空陣地へと変化。 この頃からいろは坂下に深井戸があって、山上まで水を汲み 上げていた。 (多摩市営水道の起源) (3)防空陣地:東京空襲の爆撃機の通り道だった。 あとがき


琴平神社と金毘羅山

まえがき

 琴平神社のことについては「新篇武蔵風土記稿」「武蔵名所絵図」「江戸名称図絵」 等の古書を見ても、又「武蔵の歴史地理」でさえも、天守台の記事こそ詳しいが、それ に付随して只一言「この上にありか」とか、「ここに勧請せり」とあるのみである。  多摩町誌によれば多少詳しいとは言っても、「文政の中頃、関戸の紺屋、井上林蔵と いう者が四国の本宮より御神体を持ち帰り、この地に宮社を建立した。当時は近隣の信 仰が盛んで最も繁栄していた。しかし昭和三十三年六月十二日夜火災にあい、社殿は全 部焼失してしまったが、御神体だけは焼失をまぬがれた。この社は桜ケ丘団地造成のた め昭和四十一年に現在のところに再建され昔の姿を一変した。」と、簡単な記述がある だけである。よってわたしは桜ケ丘に住む市民の一員として、この神社と周辺の山の来 歴についてもっと詳しく知りたいとおもって調べてみた次第である。

   以前多摩村には東京都南多摩丘陵自然公園の一環として、稲城市の南多摩駅を起点とし て連光寺の聖蹟記念館から百草園を経て平山城址公園へ向かうハイキングコースがあっ た。南多摩駅は昭和二年大丸駅として開業したが、一時期「多摩聖蹟口駅」と呼ばれて、 大丸の瓦谷戸から記念館へ至る門戸となっていた。

 このコースは関戸霞ヶ関の延命寺横から見晴台、城山と霞ヶ関丘陵の尾根道を登って琴平 神社へ達し、七曲坂から東寺方へ下って百草へ至るものであったが、これ以外に東寺方 の寿徳寺や和田の稲荷塚古墳方面へ下る道があった。

 この他にも、関戸や貝取からの山道もあって、現在の市役所の所に小学校があっ た頃には、腕白な子供達は帰路を此等の山道に取ったものだと言う。冒険心と言うか、 子供の好奇心は今も昔と同じらしく、現在僅かに残っている桜ケ丘団地北縁の杉や赤松 の茂った「霞ヶ関緑地」内のけものみちにも似た険しい小径を、わたしは学校帰りの子 供達に連れられて登ったことが何度かある。

 この丘陵は個人持ちが多かったせいか特別の山名はなく、神社があったことから金比 羅山と呼ぶが、古くは城山とか天守台等と一括総称していたようである。然し、古い地図 には霞ヶ関山と書いたのもある。

 此処では天守台が一番高かったと土地の人は言うし、玉川絵図を見ても一番高く描か れているが、其処は地図で見れば標高百二十メートルにすぎず、もっと高い処が西南方 に続いて何個所かあった。この様に高く見えたのは老大木が何本も生茂っていたから であろうし、又北側から眺める時崖上に勇壮に聳えていたための錯覚かとも思われる。

 金比羅山は城山とも呼ばれる様に、此処の歴史は関戸と共に古い。国府官道が通ってい た鎌倉時代以前のことはしばらくおくとして、関戸付近には源頼朝や曽我兄弟に関する 伝承もある様だが、有名なのは南北朝時代の数回に及ぶ激しい戦闘であって、当時この 山上には砦又は見張所があったのである。その後の古河公方と管領上杉氏の騒乱や戦国 時代の小田原北条氏に係る伝承も残っている。例えば連光寺の相談山や関戸の旗巻塚等 の地名によって、金比羅山の攻防と関連した昔話が語り継がれている。

 此処は昭和時代に入ってからも種々の変遷があった。特に戦後、京王団地の造成によ り近代的文化住宅街と化して、過去数百年の歴史を秘めた周辺の山容は一変し、琴平神 社も本陣を明け渡して背後の一隅に遷座することとなり、昔を語るよすがもなくなって しまった。

 山全体がブルドーザーに押しまくられ削られて草木が剥ぎ取られた時、其処を伝来の 安住地としていた動植物はどうなったのだろうか。周辺が禁猟区であったために、以前 には多くの動物が棲息していた。然し、狼谷川の名が示すように、近年まで居たと言う 狐や貉(むじな)は勿論のこと、今では野兎さえ見えなくなってしまった。又、つい先 年までは悠々と遊び歩く優雅な雉子(きじ)や山鳥の姿が見られ、時鳥(ほととぎす) の声を聞くことができたのに、今では時々飛来するヒヨドリや尾長、土鳩等の鳴き声を わずかに聞くだけである。

1.琴平神社

(1)昔の神社

琴平神社(金比羅宮)は現在桜ケ丘一町目の小高い住宅街の裏手崖の上にあるが、これ は京王団地造成のために、以前鳥居のあった場所以上の山を削られて移転したもので、 旧来の地でないのはもちろんのことである。現在地は前の場所から左程離れていないと 言うが、それでは一体どの方向へどれだけ移動したのであろうか。

 昔は関戸霞ヶ関八二九番地にあった。と言っても、現在桜ケ丘団地の地番は旧地番を 破棄して新規に設定したもの故、両者の対比は不可能に近い。旧状を知る人に聞けば斜 め後方への移転だといい、事実地図から判断してもそうなる。旧地点は現在の1丁目5 3番地の中央部にあたるので、北西方へ約60メートル余移動したことになる。然し現 在地は標高102メートル、以前は120メートルの高地であったので約20メートル 低く、従って立体的移動距離は約70メートルに相当する。

 昔、琴平神社に行く道は四方から通じていたが、所謂参道(ハイキングコース)は関 戸佐伯谷戸からの相当に険しい山道であった。観音寺下の関戸川に沿った道も通じてい たし、後ではこの道が便利になった。神社は天守台の頂上の平坦な場所に南面して建ち、 その前方に高い石段が二組掛かっていた。先ず幅一メートル程の東西に通じる参道を登 れば、右手北側の数段の石段の上に鳥居(現在のものと同じ)があり、数メートル先に 第二の石段二十七段、更に数メートル歩いて第三の石段二十段があった。石段を登れば 敷地約十四間(二十六メートル)四方の平地で、中央北側に社殿があった。

 社殿は一度建て替えられている様だが、焼ける前のものは三間四方程度の建物で、拝 殿と奥の院とが直結していた。奥の院は現在の社殿程度の大きさだが、立派な彫刻によ って飾られ、左右には幾枚かの懸額と沢山の供物が置かれていた。「江戸名勝図絵」 (別図)に見られる様な神楽堂や別棟等はも早無かったけれども、断崖となっている東 側や北側からの眺望は素晴らしく、昔見張り所とされていたことが偲ばれた。そればか りか、石段下の平坦部には空濠りの跡が残っていたと言うし、古城址の形態を備えていた のである。

 境内には幾本もの大きな松が崖の上に乗り出すように植っていた。中でも左手奥に あった黒松は二抱え以上もある巨木で「祈り松」と言い、何本もの五寸釘が打ち込まれ て錆付いていた。これは美しい村娘の秘話伝説もある所謂呪いの松であって、相手を呪 って深夜ひそかに藁人形を打ち付けた釘の跡であるが、陰湿なかげりさえ感じさせる樹 齢数百年を経た老樹であった。

 昔、木に登って府中方面の敵情や関戸河原の合戦の様子を偵察したと言う「物見の 松」や、新田義貞が大勝して鎌倉打入りの前夜此所で過したと言う「鞍懸け松」もこの 木であったらしいが、雷や台風のために傷めつけられた古木は、今次大戦中軍隊によっ て切り倒され、朽ち果ててしまった。

(2)神社の罹災

 この神社は昭和三十三年六月十二日の深夜、火災によって焼失した。住み込んでいた 浮浪者の失火によるものだろうと言う。その夜、京王電車駅からの通報で関戸の消防団 員が駆けつけたが、何しろ険しい山道で水の便も悪く、万事手おくれであった。然し幸運 にも御神体と相沢五流の懸額だけは助かったのである。

 拝殿には奉納額や絵馬、カラステング、ハナテングその他多くのメンコ類がかざられ ていたが、次々と盗まれるか、悪戯されることが多かったので、五流の絵だけは集会所 に難を避けていて助かったのであるが、其処でも子供の悪戯が甚だしいために、後には 前関戸郵便局長宅に預けられていた。これは先般、公民館で展示された武者絵であって、 羅生門で物の怪を退治する武士の乗った馬が魔物に驚いて立ちあがった形の絵である。

 相沢五流は文化、文政の頃に名を知られた関戸の人で、狩野派絵画の他に茶道、挿花、 造園、彫刻等五道に秀れた文化人である。彼の絵の多くは明和年間の関戸大火で焼けて いるので、この煤けた武者絵は彼の数少ない残存絵の一つである。

 御神体は文化年間、関戸の人「紺屋」の井上林蔵が讃岐の金比羅宮へ参詣し、拝受し て持ち帰ったもので、高さ20センチ程度の小さな二体の御神像で、寛政六丙戌歳三月 の刻銘があった。罹災のためか、赤褐色を呈しているが、焼き物製であるために焼跡か ら拾い上げられた。一時熊野神社に預けた後同年九月七日、境内に仮宮の石の小祠 を設けて祀ったが、悪戯に会って転がされたりしたために、武者絵と同様に相沢邸に預 けられていた。

 紺屋は延宝年間(1670年代)以来の旧家で、八王子千人同心の子孫であり、明治 初期には多摩七ケ村の総戸長を勤めたりしているが、その後絶家して今はない。

 琴平神社の祭礼は四国の本宮と同様に十月十日に行われていたが、現在は多摩市内の 全ての神社と同様、九月の第二日曜日である。それも、熊野神社の御祭りと重ねて、形 ばかりながら関戸の人たちの手によって行われ、その時には地元桜ケ丘の有志も含めて 祝っている。

 昔は、各神社毎に祭礼日が異なっていて、此所のお祭りは賑やかなものであった。不 便な山上にあるにもかかわらず、境内には何軒もの売店の他に見世物小屋さえ立ち、 年寄りから子供達まで着飾った参拝者で賑わったものである。そしてその夜には、人里 はなれた山中のことゆえ、近郷の博徒連中が参集して、蝋燭の火の下で、終夜、博打御 開帳ということもあったようである。

(3)建立は何時なのか

 琴平神社(金比羅宮)は関戸の有志一同の発議により、昭和四十一年京王団地の宅地 造成完了段階において現在地に再建され、翌年春遷座祭祀された。現在の神社境内にあ る碑によれば、昭和四十二年四月十日再建となっている。このために京王電鉄は百三十 万円を要したと言い、更に神社維持費として二百万円を奉納している。いづれにしろ、 現在地は斜面の桧木林まで含めて約二百五十坪、以前の神社域と殆ど同じ面積である。

 消失したために、神社創建の期日は不詳であるが、昔あった一対の狛犬は「文化十二 乙亥年、辻山城守政有奉納」となっていた。又、現在の神社境内の片隅に積み上げられ ている遺物は以前右段の上にあった御神燈の残片である。それに刻まれた文字をみれば、 「文化八辛未四月吉辰」とか、「番人講」、「乞田村、落合村、貝取村、講中世話人牛 五郎」とあり、又「本宿村講中世話人作左衛門」、「中河原益田金七・原新田邑中・本 宿村杉田権兵衛・平村兵太左衛門」等の文字が読まれる。従って、この神社の創設は、 多摩町誌記載の文政年間ではなくて、それよりも古く、少なくとも文化八年(1811 年)以前である筈である。

 このことは同社拝殿に奉納されてていた相沢五流の武者絵の裏面の「文化十二亥歳二 月吉日」と言う書跡からもわかる。この絵は、大願成就の祈願又は謝恩として相沢五流 に描いてもらったもので、奉納者の本宿村有志の名が連署されている。

 尚、これらの事からもわかるように、琴平神社は単に関戸村民だけではなくて、乞田 その他の多摩市内の他部落のみか、多摩川を隔てた中河原村や本宿村及び日野高幡方面 においてさえも、如何に信仰が厚く崇拝されていたかがわかる。

 又、伝えられるところによれば、神社の高い石段を築く時には、近郷近在の信仰者達 がそれぞれ馬の背に寄進の石を積んで運んできたものだともいう。そしてお祭り前後に は石段下の鳥居のところにおおきな幟旗が立ち、天守台の立ち木を背景として白く映え てはためいていたのである。

(4)琴平神社の由来

 琴平神社は四国讃岐の金比羅さんが本宮である。金毘羅・金刀毘羅・琴平等と書いた りするが、どれが正しいのか。昔から随分と変遷してきているが、明治元年に琴平神社 から金刀比羅宮と改称された。神社には神号と社号がある。神号とは祀る神の尊号であ り、社号とは出来上がった神社の名前を言う。この神社の神号は金毘羅大権現であるが、 御祭神は大物主命、又の名を大己貴命(おおなむちのみこと)と言い、大国主命のこと でもある。又、崇徳天皇が合祀されている。従って此所の御神体の二体はこの御二方に 当たるわけである。

 然し又一説によれば、本尊は印度のクンビーラ(Kumbhira)であって、ガンジス川に 棲む魚神のワニのことだが、後に神格化されて仏法の中心地王舎城の守護神となる。釈 尊の諸国巡回を妨害する提婆達多(だいばたった)の迫害を排除して授けた薬師十二神 の一人、クビラ大将(又は琴毘羅童子)がこれである。このことが大国主命の事績と似 ていることから、本地垂迹説の流行とともに同一視されるに至ったもののようである。  ワニとは古代日本ではサメのことであったが、面白いことに、東南アジアでは船のこ とをワニ(ウワニ)と言い、熊野地方では小舟をワニと呼んでいて、昔南方から渡来し たコンピラ海人族の古代信仰の名残かとも思われる。有名な歌の『こんぴら船 船... シュラシュシュシュ』は『お船 船 船...すべる 滑る滑る』の意味にも解釈でき るとも言われて、興味深いことである。

 金刀比羅宮は海上守護神として古来有名であるが、同時に殖産神でもあり、又除災招 福の神として厚く尊信されてきている。讃岐の金刀比羅さんの起源は古いが、全国的に 信仰が広まったのは江戸時代以後であって、特に近海輸送の発達する中期頃から隆盛す る。例えば、現在東京分社となっている水道橋の金刀比羅神社は頭初、高松藩主松平氏 の邸内祠であり、虎ノ門の神社は丸亀藩主京極氏の邸内祠であったが、共に衆望によっ て一般に開放し、やがて独立の神社となったものである。

 江戸時代こんぴら船に乗り、こんぴら宿に泊まる形のこんぴら講詣りによる、団体又  は代表者等の本宮参詣が盛んになるにつれて、他国(他藩)への銀の流出防止の意味も あって、やがて各藩では長途の参拝を放任できなくなり、自藩領内への勧請が多くなっ てくる。

 日本国内で多い神社は、八幡社、天神社、稲荷社であって、琴平社の数は左程多くな い。神社庁届け出での調査では、山梨以外関東地区の神社数は比較的少なくて都内では、 八社、無格社を含めても十四社程度であるけれども。桜ケ丘のような小祠はもっと多い ものとおもわれる。とにかく金比羅さんはお稲荷さんに次いで、長い間庶民に親しまれ てきた神社である。

(5)その他の琴平社

 多摩市には桜ケ丘以外にも、和田と落合の二個所で琴平社が祀られている。共に桜ケ 丘の神社よりもあたらしい小祠であって、自部落の信仰の対象として分祀したものの様 である。

 上和田の高蔵院の境内の一隅にこじんまりと建てられた祠は、そのそばに建てられた 遷建碑によれば、安政四年四月(1857)桜ケ丘の神社より約50年後に上和田の人 相沢周助にょって、四国の本宮から当寺院に勧請された。然し四十年後(明治三十二年 九月)神仏分離令のために、南方の愛宕山上に移転して愛宕神社と並んで祀られたが、 その七十年後(昭和四十三年十月)には多摩ニュータウン建設のために、再度頭初の場 所へ戻って来ている。今時寺院内というのもおかしな話ではあるけれども、小祠にすぎ ないとはいえ部落の人たちの尊崇を受けているようである。

 下落合(上之根)の琴平社は以前には、上の根から日影を経て青木場へ至る旧道筋の 峠付近にあった小祠である。上の根の黒田・寺沢氏等が世話をしていたが、同様ニュー タウンの造成のために移転を余儀なくされた。そして先年、氏子部落の上の根の宅造地 の一隅に、八坂神社を中心として山王社その他七社とともに一括移転して合祀されてい る。

2.金比羅神社の今昔

(1)京王団地

 京王桜ケ丘団地は京王電車が沿線各地に造成してきたいくつかの団地のなかでも最高 級のものであって、個性的な建物が多く、又最近一部ではミニ開発を防止するための建 築協定も結ばれている。此所の宅地造成工事は進捗とともに建設各社の注目するところ となり、頭初当分の間は居住希望者だけでなく、開発各社の見学者も少なくなかった。

(開発当初、いろは坂より駅方面をのぞむ。 左下は当時のガス会社。松本靖比古氏 提供)

 この団地は金比羅山を含む丘陵約二十五万坪(七十六万余平方メートル)の広さであ って、昭和三十一年九月用地買収を開始し、同三十五年三月工事に着手、三十七年四月 に第一期分譲を始めた。そして、四十一年の第七期分譲迄に約二千区画を造成して売り 出し、その後の多少の増加分を含めて、四十七年七月には完売されている。工事は四丁 目の寿徳寺付近から開始されて、一丁目の大栗橋寄りが最後であった。区画は大略昔の 大字の区分に沿っていて、一丁目は関戸、二丁目は貝取、三丁目にも一部貝取りがはい るが主として落川と東寺方であり、四丁目は主に東寺方であるが一部関戸分が含まれて いた。

 この丘陵の稜線は大体同じ高さであったが、一番高いところは琴平神社のあった天守 台ではなくて、現在のロータリーの北西部に当たる寿徳寺峰で標高百三十ニメートル、 次ぎは三丁目十番地付近の原峰が百三十メートルであって、浄水場付近でさえも百二十 六メートルほどの高さであった。そしてこの尾根に沿って道が通じていて、大字の境界 となっていた。

 原峰の南側中腹には昔「鐘懸け松」と呼ばれる老大木があり、各所にも赤松の大樹が 見られ、山桜の名所でもあった。鐘懸け松は周囲三メートル以上もある老樹で元弘三年 の関戸合戦の時に陣鐘を掛けたと伝えられているし、その後も村人に時を知らせる鐘が あったとも言う。明治の頃枯果てたが、その下枝で作ったと言う大きな臼が今も残って いる。

 関戸の観音寺川や貝取の狼谷川、東寺方の寿徳寺付近その他の小谷戸にも地下水が湧 出していて、田や畑があったが、丘陵の大部分は雑木林であって、南側斜面の隔離病棟 (避病院)以外民家なかった。

 このように、狭いながらも田畑から原野山林まで地勢が多様であったので、京王電鉄 会社の買収価格も数段階に分かれていた。後になるほど当然価格は高くなっていったが、 頭初の平均地価は坪当たり四百円前後であったという。

 この頃のこと、二千坪の山林を売って造成地の一区画(百坪)を買ったら、入金の倍 以上も支払わなければならなかったとか、大地主は一千万も入手して大評判になったと いう話が残っている。明治三十九年三度目の火災後観音堂に仮住居していた寿徳寺は広 い地所持ちであって、その売上金によって今日の立派な再建が出来たともいわれている。 又、戦時中陸軍火工廠の官舎用地として買い上げられた連光寺本村の畑地は坪一円五十 銭であったというが、最近の地価高騰(昭和五十七年四月団地内公示標準価格一平方 メートル当り二十万円以上)と比較して全く今昔の感に耐えないものある。

(2)奉仕道場

 明治十四年二月以来数度に及ぶ明治天皇の連光寺行幸を顕彰して、御野立所となった 大松山に聖蹟記念館が出来たのは昭和五年十一月である。これに対応する意味もあって か、大松山や向ノ岡の景観に劣らない旧跡地、霞ヶ関天守台を中心として健康的遊楽地 計画が目論まれた。延命寺裏手の見晴台から城山にかけての「紫城」計画がそれである。  これが何時、誰の手によって発議されたかは不詳であるが、ある程度計画が進んだ段 階において、より精神面を重視した計画へと変わっていく。そして大東亜戦争へと進展 する軍国主義的時代の流れと共に、この計画は更に変化する。それは最初の夢みたいな 「紫城」から「太子堂」計画に、そして「奉仕会道場」へと推移し、次には軍隊の宿舎 と防空陣地へと転換したのである。

 聖蹟記念館が前宮内大臣伯爵田中光顕を中心とした、多摩村以外の力によって建設さ れたのと同様に、金毘羅山の計画も地元の人による発案ではなかった。従って、この間 の記録は殆ど残っていないので、土地の古老達の記憶にもとずいて判断する以外にない。 然し、当時の青壮年は殆んど軍隊や徴用に招集されて在郷せず、其等の推移を見聞出来 たのは当時の少年達に過ぎなかったことも、此等の事項が埋もれたまま忘れ去られよう としている理由かもしれない。

 昭和十年頃の多摩村地番地図をみれば太子堂計画予定がはっきりと記入されているの で、それ以前からの計画であろう。太子堂とは聖徳太子の遺徳を顕影し追慕するための 施設であって、この計画は一応具体化されている。然し場所が不便な山中のこと故、北 側の急斜面上に針金を架けてロープウエイを造り諸資材を搬入して多少は建設が行われ ていたようだが、本格的に工事が進められたのは「奉仕会」以降のことである。

 当時の道路といえば、幅一メートル足らずの尾根道か、畑に通ずる農道だけであった ので、作業は先ず道路工事から始められた。それは関戸霞ヶ関観音寺下の関戸川に沿っ た農道をもとにして開設されたもので、勾配も比較的緩やかな幅四メートル近い道路で あって当時の木炭自動車でもある程度登ることができる程のものであった。

 現在の「いろは坂」を短絡する石段道があるが、それは昔あった山道の名残である。 その急斜面の下方の大栗川寄りに掘抜き井戸を設けて、山上までポンプ揚水する水道設 備も整備されていた。これが今日の多摩市営水道の起源ともなるのであるが、其処には 豊富に噴出する地下水を利用した練成用の潔斉(みそぎ)場も設置されていて、大学教 授が指導していた。

 奉仕会は本部を飯田橋に置く全国的法人組織であったが、道場は此処だけであったよ うである。理事長が荒木貞夫、常務理事は菅原裕であり、陸海軍の諸将軍の他に大学教 授や民間有力者も関係していて、時々来場していた。然し、これらの幹部級の人たちで さえも、当時の交通事情には勝てず、荒木大将でさえも、時には桜ケ丘駅から歩くか、 観音寺下付近まで輪タクを利用したりしていた。

 輪タクとは自転車の横に(側車)、前又は後部に座席を取り付けて輸送する。戦中、 戦後のガソリン不足時代に止むを得ず、簡便な輸送手段として利用された。東南アジア では現在でも、「シクロ」とか「ベチャ」と呼ばれて利用されている。

 荒木理事長は陸軍大将であって、軍部行動派の首領として、統制派との派閥闘争が有 名である。ニ・二六事件後予備役に編入されるが、文部大臣を務めたりして、国民教育 の戦時統制に努めた。戦後A級戦犯に指名され、極東軍事裁判では菅原専務理事の弁護 によって終身刑となるが、まもなく仮釈放となっている。

(3)防空陣地

 奉仕会の道場設備は戦争末期軍部に接収されて、奉仕会の活動は停止する。此処に駐 留したのは防空部隊であるが、水道設備まで含めて宿泊設備が整備されていたので、他 部隊員の居住にも利用された。防空陣地が布設されて立入禁止となったが、それは昭和 二十年になってからのことである。

 多摩市付近の防空部隊は帝都防衛はもちろんのこと、立川付近の航空基地や連光寺周 辺の火工廠(第二陸軍造兵廠多摩製造所)を防衛するためのものであった。金比羅山の ほかに連光寺の相談山や稲城市大丸の城山及び高幡や小山田の山上にも布陣していた。  金比羅山に居たのは照空部隊と通信隊であって、寺峰付近にレーダーや照空灯をすえ、 浄水場付近で総合指揮と電気通信を行っていた模様である。何しろ、立入禁止となって いたので詳細は不明であるが、戦後天守台付近の峰々には撤去された掩蔽壕陣地が多数 見られた。

 連光寺の山上には高射砲隊と照空隊が居た。そして、レーダーで敵機の位置を察知後、 離れた二個所以上の照空灯で目標物を補足照射し、別の場所の高射砲が追跡射撃したの である。

 昭和十九年七月、米国軍のグアム・サイパン両島占領後、長距離重爆撃機の基地とな り、同年十一月以降、首都東京への集中敵機来攻が活発化する。特に、翌二十年三月十 日夜半の被害は甚大なものであった。この様に、連日連夜に近い警報発令に都民は心身 共に疲労し尽くしたが、二十年二月以降は艦載機の大挙来襲も頻繁となり、立川や八王 子も甚大な被害を受けるに至った。

 此等の空襲時には多摩市上空がその通路であった。サイパンからの大型爆撃機B29 の大編隊は伊豆半島と富士山を目標にして飛来し、多摩市上空付近で方向を東に変える。 又房総半島から侵入したものは逆に、多摩市上空が帰還コースであった。五月二十二日 の帝都最後の夜間大空襲(日本側の発表ではB29 250機)の時であったか、波状 的に飛来する編隊と帰ってゆくものとが、幾組みとなく多摩市上空で交差するのが見ら れたし、それを狙った高射砲の不発弾が乞田河原で爆発して驚いたことがあると言う。 暗夜照空灯に照射されながら、大きな翼を広げて独特の爆音を響かせ、高射砲弾の届か ない高空を、悠々と飛び来り飛び去る姿を、やり場のない無念と憎悪の目で見上げるだ けだったとも言う。

 艦載機群は通常昼間、多摩川に沿って低空を波状的に侵入し、関戸橋付近で上昇して 立川方面の攻撃に向かったが、連光寺の山上から眺むれば、戦斗機の背面が見えるほど の低空であったと言う。

 その連光寺も爆撃された。爆弾数十発、幸運にも山林中に落下して被害はほとんど無 かったが、隣接する稲城市坂浜地区では焼夷弾攻撃を受けて民家数軒が焼失している。 然し防空陣地や火工廠は無事であった。米軍が火工廠の所在を知らなかったわけではあ るまいが、今日弾薬庫地域内に入って、その配置状況を見ればわかるように、多摩丘陵 の山間樹林の中に潜む様に、分散隔離されて点在する工場や倉庫の発見は容易なことで はなかったであろう。

あとがき

 とにかく、幾多の苦難と悲劇とを残して戦争は終わった。そして勿論、金比羅山に構 築された陣営も撤去されて、大きな窪地だけを残したわけであるが、奉仕会の立派な建 物はどうなったか。聞けば都区内のいづれかの寺院へ引き取られたと言うし、残された 琴平神社は焼けてしまった。

 戦い破れて山河残ると言うが、その山容さえも、現在ではすっかり変わってしまって、 往時の面影を留める所が果たしてどれだけ残っているだろうか。昔、天守台からは、武 蔵野のはるか彼方の筑波、日光、赤城等の諸山の遠景が良く望見できたと言うが、それ さえも今日では、スモッグのために遮られて、良く晴れて、しかも西風の強い冬の朝で でもなければ殆ど見られなくなってしまった。

 私は現在、この変貌してしまった桜ケ丘団地の一隅に住み、戦後日本の繁栄の中に囲 まれながら、多摩川に臨んで繰り返されてきた非情な歴史の重みにも耐えてきた郷土多 摩の姿を、静かに偲んでいるのである。

本稿の作製に当たって、多くの人々から取材に応じて頂いたが、特に岸重雄、柚木積治、 小山二三男の諸氏からは貴重な御教示を受けた。茲に厚く御礼申上げる次第である。

(昭57・12・10)(史談会誌第2号所載)


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